喪女〜母1人、子2人〜

父の喪に服する間のあれこれ。

葬儀とお金

朝食を済ませて少しすると、母方の親戚が集まってきた。

ちびっ子どもはいないにしても、ざっと20人ほど。

親戚が集まることに慣れているので、自然と数人のお姉さん達がお茶を出したり、引っ込めたり、食器を洗ったりしてくれる。

私も最初のうちはお茶を出していたのだが、そうこうするうちに葬儀屋が来て、お任せすることとなった。

 

まずは喪主を決める。

通常、妻か成人した子どもが喪主をつとめる。

母は憔悴しきっていたので、まず無理。成人した子ども2人のどちらかだ。

「通常は成人された長男がおられる場合、その方がされる事が多いです。」

控えめに葬儀屋さんが教えてくれた。まあ、そうだろう。

ということで、弟に決まった。

会場費と別の市で葬儀を行うための事務的なお金で18万ほどかかった。

会員制だったり、市区町村をまたがなければ、これはまた値段が変わるのだろうが、今回は仕方ない。しかもそのお金、手続きの関係で明日までに現金を用意して欲しいとのことだった。

「分かりました。用意します」

私が答えた。

 

次は祭壇について。

10万が底値で、ランクが上がるごとに値段も上がる。私達兄弟が若いこともあって、葬儀屋さんが出したパンフレットには80万までの祭壇が並んだ。多分まだ上もあるのだろう。

「こんなんは、いくらでも上があるし、お金あるんやったら、どんだけでもしたりたいと思うやろ。でも、金額やないんや。この後いくらでもお金いるんやから、無理せんでいい」

親戚のお兄ちゃんが、そう言ってくれた。

「分かった。じゃあ、40万のにして、後は花で埋めます」

棺のサイズの祭壇で、質素だが、それでも私の出せる精一杯だった。

次は、花を選んだ。

「通常は、親族一同という名前で花を一対選ばれる事が多いですが、どうしましょうか」

花で埋めようと決めた後である。ここは一対四万の少し豪華な花にした。

あとの諸経費は、父が家にいる間のドライアイス代、葬儀参列者へのお礼の品、通夜と告別式で出す、料理代だ。

ざっと計算したら、100万を超えていた。

 

父が治ってくれるなら、値がはる治療でも受けさせてあげたいと、100万ほど出すつもりで貯めていたお金だった。

死んだ後に出すなんて思ってもいなかった。

なんて虚しい。

それでも、母の思うように父を送ってあげたい。

意地と見栄のために、お金を出すと決めた。

葬儀屋を決める前に考えること

母方の親戚が、朝の早い時間に三人ほど飛んできてくれた。一人は

「朝ごはんたべたんか?」

と私達家族の朝食を持って。最初に電話した母の甥。従兄弟達の中でも年上のお兄ちゃんで、私とは15才以上離れている。

言われてみれば確かに、最後に食事した時から9時間ほどたっていた。

でも、食べる前に決めないといけないことがある。

葬儀屋をどこにするか。

 

「あてがあったら」

と言われて、

「あてなんかない」

と思ったが、50も過ぎた先輩の親戚達には、あてがあるようだった。

 

①大手冠婚葬祭会社の会員になっていたら、式場やその他の手配をしてくれるもの。

②地域の自治体で会費を払って運営しているもの。

③飛び込みで電話して手配するもの。

 

親戚達の提案はこの3つだった。②は事前に地元の会員になってなきゃいけないので、✖️。①は、

「俺が会員やから、俺の名前でとったるで。」

と申し出てくれたため、使える。

私達が使える手は①か③になった。

 

ただ、私にはどちらか選択出来るだけの判断材料がない。

 

母の希望で、今住んでいる市ではなく、以前住んでいた隣の市でお葬式をしたいという方向になった。

その場合、余計に手続きとお金がかかる。どちらの市にも顔が効く葬儀屋でなくてはならないし、そういった手続きを理解して進めてくれるところでないと困る。

 

もう一つの条件として、葬儀場と焼き場がすぐ隣の式場をおさえたかった。

母は連日の看病疲れと父の死のショックで、とても長距離を移動することが出来ない。私はそう判断した。

 

そうなると自然と結論がでる。

①の大手冠婚葬祭会社では、焼き場と式場が一体型の所などあるはずもないのだ。結婚式の披露宴の隣に焼き場があっては🤭ひんしゅくものだ。

 

③であがっていた葬儀屋に従兄弟のお兄ちゃんが素早く連絡を取ってくれた。こちらの要望も伝えて、それが出来るという返事ももらった。

 

後は葬儀屋が来るまで、一息つける。

あまり食欲もなかったが、食べなくては戦えない。

これからすることはたくさんあるんだ。

 

そんなとき父の弟から折り返し連絡があった。

「昼頃、おばあちゃんを連れて行きます」

とのことだった。

ちなみに、母方の親戚は車でも30分以上、遠くて2時間かかるような場所に住んでいる。

父の弟と父の母は、歩いて5分もかからない距離に住んでいる。

 

食べなくては、戦えない。

親戚のお兄ちゃんが買ってきてくれたおにぎりにかぶりついた。

明けない夜はない

午前3時。

父の亡骸と、母と私と弟。

どれだけストーブを焚いても、寒くて仕方がない。

 

1時間待って、もう一度父の弟に電話した。

繋がらない。

 

母の甥に電話した。

繋がらない。

 

その甥の兄にも電話して、やっと繋がった。

眠そうな声で、話を聞いてくれた。

「分かった。準備できたらすぐ行くから。待っとれよ」

その後も母方の親戚に連絡がつきだした。最初に連絡を取った母の甥からも折り返し電話があった。

「すまん。夜は電話がつながらん設定になってた。すぐ行くからな。お母さんは?ちゃんと見とったってくれよ」

 

母は6人兄弟の末っ子、うちの他の5世帯とも普段から付き合いがある。それぞれ従兄弟たちも成人して自分の世帯を構えているので、幼児も入れれば母方の親戚だけで、ざっと50人ほどいる。

 

母方の5つの家族に連絡を取ったが、どの家も反応は同じだった。

「すぐ行くから!」

 

連絡し終わったころ。

何気なく窓を見た。

空が白んでいる。

鳥がないている。

私はようやく、涙を流せた。

明けない夜はない

死亡確認

テレビで見るのとおんなじだと思った。

脈だとか瞳孔だとか、色々見て、

「何時何分死亡を確認しました。」

母が、呼吸器で動く胸を指して、

「まだ動いてますよ」

と言った。

強制的に空気を送っているだけだと、説明された。

そんなこと分かってる。

でもまだ動いてるんだもの。

 

そこからはひたすら忙しくて、悲しみに浸る余裕もなかった。

まずは父の弟に電話。繋がらない。

父の母もいるのだが、高齢のばあちゃんに夜中電話するのはやめた。

使っていた病室の中にある荷物をバックに詰め込んで、忘れ物がないかチェックした。

四人部屋の他のベットからは寝息一つ聞こえない。

この真夜中の病室で、ベットを片付ける気配がすれば、何があったかの察しはつくだろう。ベットの上で聞き耳を立てる患者さん達。心中の不安は計り知れない。

「お騒がせしました。父がお世話になりました。」

呟くように言って、三つのかたく閉められたカーテンに頭を下げた。

 

「死んでしまった人は、モノ扱いでね。死亡診断書と、同行する家族がいないと家まで運んでもらえないの」

母はそう教えてくれたが、もう自分であれこれ動くことはできなかった。

専用の車を病院が手配してくれた。

後日入院費を支払うために、私の連絡先を病院に提出し、かわりに父の死亡診断書を受け取った。

先行して私が家に帰り、布団を敷いて父を迎える準備をした。

弟と運転手の二人で父を運び込み、布団に寝かせた。

タクシー代よりはるかに高い金額を運転手に支払うと、

「今の時期、葬儀屋を早く決めた方がいいですよ。正月三が日は焼き場やってないんでね。こんでますよ」

と教えてくれた。

「この時間でもいいんですか?」

と聞いてみた。もう夜中3時を過ぎている。

「何時でも。ウチでしてもらってもいいんですが、まあ、当てがあるならそこでもいいですし。名刺だけ渡しておきますね」

葬儀屋の当てなんて、あるわけない。かと言って目の前の名刺に飛びつくのもためらわれた。

本当に私は何も知らない。

運転手が帰ると、深い夜の落ち窪んだ底に、父の亡骸と、私達家族三人がポツンと取り残されてしまった。

 

ハレでもないのに(着物のこと)

喪の期間中にげんなりしてしまう事の一つに、着るものの制約がある。

告別式までは毎日黒い服だったが、流石に忌や喪の期間もずーっと黒一色でいるつもりはない。

まあ、冬場の私服は元々黒っぽいものが多いのだけれど。

実に喪女らしい。

 

ここで言う制約とは、派手な色やデザインの洋服を着たいということではない。

着物が着れないということを指しているのだ。

なにも、付け下げや訪問着を着ようという話ではない。普段着着物の木綿や麻、ウールや化繊でいいのだ。

ほんの50年前なら、はばかることなく着ていたはずの着物。でも今はハレの日か、コスプレか、といった印象。

私だけならともかく、家族も同居しているとなると、流石に着物を着て出かけることが難しい。

 

世間様の目。喪女の私にとってはどうでも良くても、家族にとってはどうでも良くない。

 

せめて、家の中で着るぐらいは、許してもらえるのでは。そんなことを企んでいる。

不真面目。

父の死因

父はガンだった。

タバコが好きな人で、1日1箱はルーティーン。

それでも値上がりラッシュに負けて、なんとか10年ほど前にぱたりと断つことができた。

一年半前、胸の苦しさから救急車に運ばれて、そこでガンだと分かった。肺から心臓の血管を圧迫するところまで進んでいた。

「普通の人の数値が80ほどだとすると、お父さんの数値は2000なんだって」

電話で母が説明してくれたが、本当にその数であっていたのかはわからない。私はそれを聞いて、

スカウターが壊れる。

そんなイメージをもった。

ただ、薬がうまくきいて、肺と心臓はほぼ治ったのだけれど。

 

しばらく元気に過ごしていたら、また急に倒れた。私が初めて人間相手に心臓マッサージを行った相手が、父になってしまった。

必要だったのかは今でも分からない。泣きわめく母の声をバックに正常な呼吸をしているかどうかわかるのなら、私は立派な救急隊員になっているだろう。一度胸部を圧迫すると、父は意識を取り戻した。

本物の救急隊員が家の前で担架を用意しているころ、

「トイレ行ってくる」

と父は一人で立ち歩いていた。

病院に搬送されて検査をしてみると、ガンが脳と脊髄に転移していたことが分かった。

実はそれも、なんとか治療をしてまた家に帰って来たのだけれど。

脳への放射線治療は負担が大きかったようで、不眠から始まり、痴呆のような状態になった。それでも周りの人と関わることで少しずつ改善し、外出できるまでになった。

最終的に父の命を奪ったのは肝臓の機能低下だった。抗がん剤の作用で肝機能が低下することは分かっていた。

食べる量が極端に減って、血小板の減少から、血が止まらなくなった。白血球も少ないので、私達家族と会うときはマスクを着用。みるみる痩せた。

最後の最後まで、「痛い」とか「しんどい」と口にしなかった。心配をかけないようにというのもあるのだろうが、多分本当にあまり痛みを感じなかったのだと思う。鎮痛剤の類は一切使用しなかった。

 

生き絶える6時間前、他愛もない会話をした。

4時間前、集中治療室に運ばれた。呼吸器をつけられている父を見て、この姿の父を見続けることに、母は耐えられるのだろうかと思った。

10分前、病院から連絡があり、すぐに駆けつけた。

それでも間に合わなかった。

真夜中。

 

 

はじめに

先日父が他界した。

そして私達家族は、母1人と、子どもである私と弟の3人になった。

喪の期間を調べると、一年間だという。

一年間は身を謹んで過ごすのだそうな。

遊びを控えて、旅行や祝い事への出席も控える。

一年間。

そうして、故人を偲ぶのだと。

そう思うと、無性に何か書きたくなった。

つまり気晴らし。そして、身辺整理。頭の中のね。

喪女という言葉が引っかかった。

喪に服する女、という意味ではない。

モテない女という意味らしい。

実に、私を表している言葉ではないか。

タイトルに拝借しよう。